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常設展案内

■布志名焼
 布志名焼は、江戸時代の中ごろから玉湯町布志名地区で盛んに行

われ、現在にいたっている。布志名は、玉湯町の東端に位置し、宍

道湖にのぞんでいる。

◆布志名焼の歴史

 1750(寛延3)年に船木与次兵衛村政(ふなきよじべえむらまさ)

が布志名に窯を開いたことが布志名焼のはじまりとされている。

その後1780(安永9)年、土屋善四郎芳方(つちやぜんしろうよし

かた)(現雲善窯)が大名茶人として有名な松江藩主松平治郷(不昧

公)の命により「御焼物御用教方」として楽山焼から布志名に移り

、最初の御用窯になった。江戸時代には、のちに御用窯となった永

原窯を合わせて2つの御用窯があり、船木系の民間諸窯が共存した。

 明治時代になると、御用窯も藩の庇護がなくなり、民間の窯とし

て独り立ちする必要があった。次第に布志名焼の窯元同士、また国

内の産地との競争が激しくなった。

  布志名焼は、明治末期から大正初期に最盛期を迎え、17の窯元

がひしめいていた。 しかし、昭和初期にいたり、世界的不況のあお

りを受け、大正万古焼など地域間にも競争にも破れ、廃窯する窯元

も相次いだ。

 大正末年、柳宗悦(やなぎむねよし)らが「実用品の中にこそ本当

の美がある」という民芸運動をはじめていた。布志名焼の窯元であ

った舩木道忠や福間貴士らは、1931(昭和6)年来県した柳宗悦ら

の話を聞く機会を持った。浜田庄司(はまだしょうじ)、河井寛次

郎(かわいかんじろう)、バーナード・リーチらの指導も受け、民

芸に布志名焼再生の道を見つけた。それまで一世を風靡した黄釉は

、優美ではあったが、実用的ではなかったため、次第に姿を消して

いった。

 現在、4つの窯(雲善窯、舩木窯、湯町窯、雲寅窯)が稼働し、そ

れぞれ特徴ある作品を作っている。

  船木与次兵衛村政の顕彰碑
  土屋善四郎政芳の肖像
  お指図書(江戸時代)
  沖縄壷屋での舩木道忠

◆布志名焼の作品


 布志名焼では、日用品からお茶に使われる雅物までさまざまな器

が焼かれた。石菖鉢、捏鉢、火鉢、花生け、ボテボテ茶碗、徳利、

土瓶、皿、湯飲みなどがある。昭和初期、民芸に転換するまでは、

黄釉の地に色絵を施すのを最大の特徴とした。そのほか、青地釉、

藁白釉、宍道湖の砂鉄を使った金流しなどの釉薬があった。

 昭和初期以降は、実用的で暖かみのある民芸陶器が主流となった

。リーチの指導によるスリップウエア(化粧土)の技法を多用する

ようになり、今日にいたっている。雲善窯は、江戸時代からの伝統

を引き継ぎ、茶陶を主として焼いている。