学校教育目標
  豊かな心をもち、
      たくましく生きる子どもの育成

         教育スローガン

  ひ 瞳かがやく大谷の子

 は 励まし合い伸びゆく大谷の子

 や やさしさいっぱい大谷の子

大谷小学校は玉造温泉から大東方面に車で約10分ほど行ったところにあります。自然に囲まれた木造校舎です。小規模校ですが22人の瞳かがやく子どもたちが元気に過ごす小学校です。

                           

              大谷小学校校歌
 1. 日速の森に 日が映えて
   あかるい風の 吹くところ
   のぞみ ゆたかに はつらつと
   まなぶ げんきな 友よ友
   たのしい 大谷小学校
 2. 大谷川が 呼んでいる
   のびゆく すがた みつめてる
   こころ すなおに 美しく
   みんな 仲よく 手をくんで
   すすむよ 大谷小学校
 3. さくらの花の 咲く春も
   夏 秋 冬も すこやかに
   夢を 大きく だきしめて
   ちから いっぱい はげもうよ
   われらの 大谷小学校
                                     

 

若槻礼次郎先生

 

 大谷小校長室の若槻礼次郎
     大谷小学校の先生だった若槻礼次郎

 若槻礼次郎(当時はまだ、奥村礼次郎)が大谷小学校に勤務したのは、1881年(明治14)年4月5日から翌年3月21日までの約1年間です。
 礼次郎の生家・奥村家は、松江藩の下級武士でしたが、維新後は、わずかな奉還金と手内職で生計を立てていました。そのため、父仙三郎は礼次郎が県立第一中学(のちの松江中学)に入学することでさえ反対しました。 礼次郎はいったんは中学に入学しますが、2年の中途で退学をせざるを得なくなりました。
 退学後、先に述べたように大谷小学校の授業生(代用教員)となります。ちょうどそのころ教員を探していた大谷の戸谷正兵衛が、雑賀に住む堀尾守真と親戚であり、堀尾氏が奥村家と隣同士ということで、堀尾氏の紹介で大谷村に招かれたのです。この時、礼次郎は満15歳でした。
 礼次郎が奉職した当時、戸谷正兵衛方の母屋と牛小屋の二階が大谷小学校の教室でした。礼次郎は主に牛小屋の二階で授業していました。机間巡視をするとき、天井が低いため、たびたび天井の梁に額を打ち付けたといわれています。生徒の落書きが残るこの建物は、屋根が葺きかえられたものの、そのまま残っています。当時の給料関係の書類なども戸谷家に保存されています。
 礼次郎は、角袖の和服、袴で着任しました。戸谷家には住み込みで、昼は授業、夜は正兵衛について自らの勉学にも励みました。土曜日になると雑賀の実家に帰ったようです。当時、生徒は、男36名、女48名で、大谷ばかりでなく、別所(玉湯町林村)、田根(宍道町上来待)から通う生徒もいたようです。

 

大谷小学校で授業生となったのと前後して、兄譲(ゆずる)と親しい大津小学校長、伊藤臍から大津小学校勤務の打診を受けましたが、大谷小学校が先約であるとひとまず断っています。しかし、兄の友人の頼みということ、また月給を少しでも多くし、家計を助けたいという思いがあって、大谷小学校を1年で去ることになりました。ちなみに、大津小学校の給料は、大谷小学校の3倍、4円50銭でした。
 その後、大津小学校も辞職した礼次郎は、東京帝国大学に進学し、1892年(明治25)年大蔵省試補となって、官僚、そして政治家へのスタートを切ることになります。
 1926(大正15)年に、島根県出身者としては初の内閣総理大臣まで昇り詰めました。(第1次若槻内閣)。ロンドン軍縮会議には、日本の代表として出席するなど、大正、昭和初期の日本の政治の重鎮として活躍しました。1949(昭和24)年、静岡県伊東市で狭心症のためなくなりました。84歳でした。  
          「玉湯なんでも大辞典」より抜粋
    旧大谷小学校校舎
 「若槻大臣御栄任記念祝賀帳」より